言葉

かたちの源

形はどこから生まれるのか。
どのように形を導いていくべきか。

もちろん、明確な答えがあるとは思えません。それでも思案する拠り所として、迎え入れてくれる場があるように感じています。

単純に考えると、形は機能に従って導き出されます。ある目的を達成するために生まれた形は、最も純粋な形といえます。形を定める過程で、作り手の趣味や趣向を反映させることもできます。デザイナーやアーティスト等の感性を有した形は、世の中に彩を与えてくれます。しかしながら、強烈な自己表現の集まりが美しいかといえばそうではありません。

だからといって、すべて円や四角といった幾何学的な図形で構成してしまうと、どこか無個性で、均一的かつ機械的なものになるように感じます。中立的なシンプルなプロダクトに特別変な感情は抱きませんが、何か大切なものも削ぎ落されているように感じてなりません。

では、何を大切にしたらいいのか。

原点回帰的ですが、思案の末に「風土と歴史」を尊重することが「いい形」を生み出す大切な作法なのではないかと考えるようになりました。

なぜこのような考えに至ったかといえば、自らの感性のみを拠り所にするよりも、土着の文化や精神風土、さらには固有の気候や、脈絡と受け継がれて来た技術や美意識等に寄り添い生み出す方が、自然の理のごとく、遥かに優れた形が生まれると感じたからです。

「風土と歴史」は思考の源泉であり、「かたちの源」といっても過言ではありません。そして幸いにも風土と歴史は、あらゆる国や地域に存在し、誰もがその恩恵を享受することができます。

「かたちの源」は、世の中を豊かにする叡智で溢れています。

本物とは何か

ここ数年、ずっと考え続けています。
何を持って「本物」と呼べるのかということを。

なぜ「本物」を手掛けることにこだわっているのかと問われると、正確に答えることはできませんが、向かうべき道としての正しさを「本物」に感じるからです。

そしてこの「本物」という存在は、いくつも存在しうるものです。唯一の答えなどありえない。無数に存在していて、でもそれらは作為の産物としては一握りでもあります。だからこそ目指し甲斐があり、取り組む課題として心の底からおもしろいと思っています。

本物の条件を上げる前に、本物にはなりえない条件にもすこし触れてみようと思います。

ひとつには擬態があげられます。

〇〇風は、そのほぼすべてが本物になりえないと思っています。例えば木目風や、古びた風合いに人為的に仕上げたものは、どこか深みが感じられません。軽い素材に重厚感のある塗装を施しても、金属のような重みやモノ自体から発せられる圧が生まれません。壁に薄いレンガを張り付けるといった行為も、実際に積み上げたレンガと比べると力強さに雲泥の差が出てしまいます。

形をそのまま流用することも同様です。たとえば動物の形をそのまま何かの道具に仕立てたとして、それが本物と言えるかといえば疑問しかない。その形態は、それそのものだから優れているのであって、まったく同じ形のまま転用しても本物にはなりえない。造形美に感化されて応用することは美の継承として価値があると考えますが、転用と応用は似て非なるもの。

では、本物が本物たる由縁は何か。

【素材】

第一に浮かぶのは、素材を活かしたものです。
本物は素材を活かし切っている。その素材特性上、最も相応しいとされるものとして存在しているものは本物だと感じます。

素材にはそれぞれ、硬い、柔らかい、冷たい、温かい、といった性質が備わっています。それら特性を、そのまま素直に活かしたものは、適性が高く本物になりやすいと考えています。
人類はこれまでに様々な素材を扱いものづくりをしてきました。その叡智の積み重ねの果てに今があります。だからこそ伝統と呼ばれるものづくりが存在している訳ですが、伝統的なものづくりを続けて来た理由の多くは、その素材がその道具にとって最適な素材であった可能性が高いと考えられます。適材適所という言葉がありますが、これがものづくりの基本中の基本であると思います。

ちなみに「自然」という概念は西洋思想であり、日本古来に自然という考えはありませんでした。明治の初めにnatureの翻訳語として自然が用いられましたが、それまでは人に対して自然を隔てて考える、その思想そのものがなく、近しいと判断した翻訳者が自然(じねん)と呼んできたそれをnatureに相当する自然(しぜん)とした経緯があります。
文字から考えれば分かりやすいのですが、自然(じねん)とは「おのずからしかり」であって、そこには隔たりはありません。人も動物も水も草木も土や石でさえも自ずから然る自然(じねん)です。

ものづくりを自然(じねん)の営みと据えたとき、自ずと素材との関わり方が見えてくるように思います。

【色】

色については、素材色こそが本物だと思います。
その一方で、完璧な塗も本物であると感じることがあります。とはいえ本物の色とはこの色だ、と明確に提示することはできません。しかしながら、すくなくとも素材色には本物を感じる他、いくつかの色にも本物を感じやすい傾向にあります。

本物と感じやすい代表格といえば「赤」です。
特に鳥居の赤や漆器の赤は、誰が見ても本物を感じると思います。見慣れた習慣から来る思想のようにも感じますが、例えば青い鳥居や青い漆器に本物を感じるかといえば、まったくそんなことはありません。そこには意図的な、明確な作為を感じてしまい、どうしても受け入れがたい印象となってしまいます。その理由はもはや分かりません。でもなぜか、赤く塗られたものは、調和の優れた存在としてそこにあり続ける。そんなものが多いように思います。鉄骨の橋でも、赤い橋は許せてしまう。これが緑や青や茶色といった自然に多い色では逆に違和感がある。

赤は火の色であり血の色でもある。縄文時代にも多用された色であることから、古来より神聖な色であったことは言うまでもありません。言葉にできない。なぜだか分からない。赤には説明できない何らかの力が宿っています。

「黒」という色もまた、本物を感じやすい色です。
ものが存在すると必ず生じる影は黒であり、日が沈むと辺りは暗闇に包まれる。黒は最も身近な色のひとつです。「書く」という言葉は「ひっかく」から派生したとされていますが、今では粘土板に引っ掻くことよりも紙に印刷したり、あるいはディスプレイに表示させたりすることの方が遥かに多く、その文字の色は黒が定番です。

引っ掻いていた時代には素材色だった文字の色は、いつの間にか黒がふつうとなりました。文字に対して本物の色を考えるなら、それは黒だと思います。文字に赤は強すぎる。他の色もしっくりこない。ものと色の関係は表裏一体で、単独の要素だけを見て本物とすることはできません。

黒と同様に、日常で多く見かける「白」も、本物と据えやすいと感じます。
先ほどと同じく文字に関連して言えば、文字を書く下地は文明の発達とともに白に近づき、到頭ディスプレイの光という限りなく完全な白となりました。骨の色が白というのも興味深い。主役として存在するものよりも、引き立て役として存在するものの色として、白はその価値を遺憾なく発揮しています。外へ放置すると色が褪せていき、白っぽくなるものが多いことも、白という色に何か原点のような印象を与える理由のひとつだと思われます。

内装に白い壁が多いのは、古来より漆喰を塗ってきた歴史や部屋全体が明るくなるといった機能的な側面意外にも、空間における下地の最適解として相応しい印象を感じるからではないかと思います。無を志向し、光や源を彷彿とさせる白は、黒と対を成す頂点の色とも言えます。

以上、素材色に加えて、赤、黒、白の三色は、主観において別格の本物を成す色だと感じています。無論「色を成す素材」も、大切な要素であることは言うまでもありません。

【かたち】

人が手掛けるものが本物になるには、素材の選定や色彩の検証も然ることながら「かたち」もとても重要だと思っています。

本物と感じる形は、人や空間といった周囲環境との関係性から紡がれている傾向にあります。ただし単なる調和でないことは確かです。一時期、環境に調和するものは優れていると思っていましたが、現在は考え方が変わり、一概に言えないと思うようになりました。

これについては、ただ調和を志向してしまった場合、調和させる環境そのものが優れていない限りは本物にはならないと思ったからです。この考えに至ったことで、周囲環境に合わせるという考えでは、物事の本質に辿り着けないことを悟りました。

では、現状を受け入れた上で本物の形を成すにはどうしたら良いのだろうか。
道具として使用するものに関して言えば、根本的には形態は機能に従うと考えます。使いやすくなければ使い続けることができないからです。しかしながら例外として、機能の不足を凌駕するほどの造形的な魅力を生み出すことができたなら、それもまた本物だと思っています。人を魅了するほどの個性を有していると、その魅力だけで使い続けることができる可能性が十分にある他、所有することそのものにも喜びが生まれるからです。機能を超越した情緒的価値を有する造形。それもまた本物の形と言えます。

機能や個性とは別の視点として、地域性も所要な視点です。特にグローバル化した社会においては強く意識した方が良いと感じています。

ひと昔前であれば情報も素材も価値観も、地域ごとにある程度共通の認識があり、そのような環境であれば、何も意識しなくとも調和のとれた美がそこに宿ったのだと考えられます。古今東西、地域を問わず古い町並が美しいのはそのためです。

しかし現在では情報網や流通の発達により、素材の選択や価値観も多様となりました。一見すると自由でとても良いことのようにも思いますが、たとえ個々に美しいものだとしても、趣向が全く異なるものの集まりでは混沌としてしまいます。自由過ぎるが故に、環境によって担保されていた制約の美を手放してしまったと感じます。

利便性と引き換えに、自然の恩恵とも言える美を享受しにくくなった今、ものづくりは、無意識ではなく、一度意識して地域性について考える必要があると思っています。そしてそれは、現状の地域についてのみならず、歴史に学び、現在の感性を加味した上で未来像を想像することが大切だと思っています。
形を成すにあたっての考えを、もうすこし端的に表します。

『理想郷を鮮明に描き、
 その世界に存在しうるものを現実化する』

これが、現時点での私の考えです。

地域に根付く美意識や価値観を学んだ上で、今を生きる感性を以てして理想像をできる限り鮮明に描き、その理想的な社会に存在しているであろうものを現世にかたちづくる。このような思想を大切にしています。

もちろん、個々に理想は異なりますので上記のように全員が思案しても制約の美に匹敵する美が生まれるかは分かりませんが、それでも意識的にその土地ごとに育まれた土着の固有性について理解を深めることで「らしさ」が浮かび上がり、全体としての美が生まれやすくなると考えています。そして、この思案の果てに、次の時代の本物が生まれる。そう確信しています。あらゆる伝統は、革新の産物であったはずですので。

【霊性】

本物の構成要素として、最後に精神的なこともお話したいと思います。

日本人的な感覚としての「もの」は、ただ形のある存在というよりは、神や物の怪といった霊性が宿っている存在です。つまりObject+Spirituality=「もの」と言えます。

私たち日本人は八百万の神を無自覚に信じていて、信仰する宗教はないと言いつつも神仏の前では手を合わせ、石ひとつに結界を感じたりもする本当に不思議な民族です。このような背景があるからこそ「もの」の奥に霊性を感じることができるのだと思います。

しかしながら、近年生み出された製品の多くはObjectだったのではないかと言わざるを得ません。

製品の対極に位置する存在として、柳宗悦氏が提唱した民藝があります。
実用、無銘、複数、廉価、労働、地方、分業、伝統、他力。これら特性を有する民藝には「無心の美」「自然の美」「健全な美」が宿るといいます。
民藝はとても素晴らしい考えだと感じています。特筆すべきは個人の創作は無名の名工の作に及ばないとしている点です。デザイナーの個性や作家性を民衆の工芸は凌駕するという主張は、民藝館の所蔵品とともに今日においても力強く存在感を示しています。

この視点に立ち工業製品を見てみると、その多くは地域性や伝統を大切にする習慣がなく、民藝でいうところの「無心の美」「自然の美」「健全な美」が生まれにくいと考えられ、精神的な奥行のないObjectとしての製品が生み出されているように思えてなりません。

とはいえ、民藝の考えがどんなに良い思想だとしても、時代が違うという点は考慮する必要があります。現に民藝館で展示されているもので生活ができるのか、正直疑問が残ります。民藝として展示された衣服や器は、今の日常とは懸け離れてしまっているようにも感じます。

だからこそ、現代的な感覚も大切にしつつ、掛け替えのない精神風土や価値観を継承していけたらと考えています。
根本的に製品がObjectになりやすいのは、純度を高く保つことがむずかしいからだと思います。

ここでいう純度とは、ものづくりに携わるにあたっての心構えや意識を指しています。

先ほど民藝の特徴のひとつに廉価をあげましたが、工業製品は民藝品以上に廉価です。廉価であるにも関わらず工業製品に霊性を感じにくいのは、その価格を実現するためのプロセスにおいて道理をはずれている場合があるからだと思っています。法は守っているけれども、人の心が尊重されていない、そんな過程を辿る製品は、本来あるはずの霊性が宿らないのではないかと。つまり廉価は、今日の適正条件ではありません。

柳氏が著した雑器の美に、手掛かりとなりそうな一文があります。雑器の美を語る上で民藝を手掛ける過程の描写があり、そこには《彼は語らいまた笑いつつその仕事を運ぶ》とあります。何てことのない一文ですが、ものづくりに従事するにあたっては、最も大切なことのように思います。踏み込んでいえば、この態度こそがものに霊性が宿る条件とすら感じています。好きこそものの上手なれ、とは言い得て妙で、好きだと時間を忘れて夢中になれます。

理想を言えば、ものづくりが好きな人がものづくりに携わって欲しいと思っています。経営者であれば、楽しめるような環境や制度を整えることは重要な役割です。このようなことは誰もが分かっているはずですがあえて書いています。それほどに、今日の社会では合理的な経済主義が行き過ぎていると感じるからです。「ものづくり」という行為を、心から純粋に楽しめたとき、はじめて物質が「もの」になるのだと思います。

素材、色彩、形態に霊性が宿ることで本来の「もの」となる。

感じて、味わい、楽しむ。


生まれたそれは、本物であり賜物だ。

個性の存在

自分を表現することほど難しいことはありません。

歴史を学ぶほど、個性というものが存在しうるのかどうかすらも定かではないと感じるからです。

結局のところ、見たり聞いたりしたものを掛け合わせたものごとしか、人間は生み出すことはできません。完璧、完全なオリジナルを生み出すことなど、それこそ神の所業といえます。

それでも、身に着けるものや食べ物、住居や生活道具が何でもいいということではなく、そこにはああしたい、こうしたいという自らの意志が確実に存在していることは事実で、無数ともいえるそれら選択の小さな積み重ねの果てに、きっと個性と呼べるような、自らの存在の証明がなされていくのだろうとは思います。

このウェブサイトのコーディングにしても、自分自身のサイトということで、正直何でもいいというところから取り組み始めましたが、結局このような上下左右のフリックを多用する実験的なウェブサイトになったことを考慮すると、大した個性は持ち合わせてはいないと思いつつも、私自身も十分個性を持っているのかもしれません。

そうだとすれば、この世は個性しか存在しえないようにも思えます。

深く考える必要はなくて、ただ生きているだけで、誰もが個性を育んでいる。

発揮しようと力むものではなく、
個性は勝手に滲み出ている。