KOHSUKE TODA 2025
この地の衣、本着物。
Vernacular clothing, HON-KIMONO.
2025|本着物コンセプトブック

本着物を手掛けるにあたって考えていることを一冊にまとめたコンセプトブックです。ウェブサイトに同様の情報を掲載しているため製本する必要はまったくないのですが、紙の本が単純に好きなのだと思います。お手に取って頂けましたら幸いです。
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ほんきもの【本着物】
戸田光祐が手掛ける衣服の総称として創案した言葉。
風土的、歴史的、伝統的であり、霊性、個性、時代性といった性質を有している。

この地の衣、本着物。
かたちの源
形はどこから生まれるのか。
どのように形を導いていくべきか。
もちろん、明確な答えがあるとは思えません。それでも思案する拠り所として迎え入れてくれる場があるように感じています。
単純に考えると、形は機能に従って導き出されます。ある目的を達成するために生まれた形は、最も純粋な形とも言えます。形を定める過程で、作り手の趣味や趣向を反映させることもできます。デザイナーやアーティスト等の感性を有した形は、世の中に彩りを与えてくれます。しかしながら、強烈な自己表現の集まりが美しいかといえばそうではありません。だからといって、すべて円や四角といった幾何学的な図形で構成してしまうと、どこか無個性で、均一的かつ機械的なものになるように感じます。中立的なシンプルなプロダクトに特別変な感情は抱きませんが、何か大切なものも削ぎ落されているように感じてなりません。
では、何を大切にしたらいいのか。
原点回帰的ですが、思案の末に「風土と歴史」を尊重することが「いい形」を生み出す大切な作法なのではないかと考えるようになりました。
なぜこのような考えに至ったかといえば、自らの感性のみを拠り所にするよりも、土着の文化や精神風土、さらには固有の気候や、脈絡と受け継がれて来た技術や美意識、価値観等に寄り添い生み出す方が、自然の理のごとく、遥かに優れた形が生まれると感じたからです。
「風土と歴史」は思考の源泉であり、「かたちの源」といっても過言ではありません。そして幸いにも風土と歴史は、あらゆる国や地域に存在し、誰もがその恩恵を享受することができます。
「かたちの源」は、世の中を豊かにする叡智で溢れています。

衣服は景観だ――。
衣服に興味を抱いたきっかけは、あるとき町中を歩いていたところ、私たちが着ている衣服も、建築同様に景観を構成する大切な要素だと気づいたからです。
景観の要素と据えると、衣服とはとてもおもしろい存在に思えてきます。個人の身体を保護し着飾る「私物」でありながら、人目に触れ景観を構成する極めて「公共物」に近い存在といえるからです。
同時に、「公私」を越境する存在でありながら、ほぼすべての日本人が洋服を着ている現状に違和感を覚えました。とはいえ、毎日着物を着る日常をまったく想像できません。しかしながら、個人を中心とする今日の洋服の在り方への疑問も残ります。
どのような在り方が理想的かを考えてみますと、当然のことながら今着れる衣服であるという前提が必要であり、なおかつ個人の趣味趣向という内側からの視点のみならず、景観をも美しくするという全体を俯瞰した視点を持てる意識が広がれば、自然と世の中が豊かに美しくなるのではないかと思います。
こような気づきから、現今の着物「本着物」は生まれました。

風土を纏う。
どこかに世界の中心があり、ひとつの価値観が伝播していく。そのような在り方に疑問を抱いています。
気候も文化も歴史も宗教も、全く同じ地域などふたつとありません。必ず固有の何かが存在します。
本着物は、それら風土特有の地域性に耳を傾け、脈絡と流れる美意識や価値観を以てして、この地にとって相応しい衣服を体現します。

伝統の産物。
伝統を次代へ繋ぐ方法はひとつではありません。
技術に着目したり素材に着目したりと、複数の選択肢がある中で、私は「かたち」にこだわり携わってきました。これについては、形が名称を決定づけるからです。
木材が椅子や机と呼称されるには、それと思える形になっている必要があります。逆に言えば、どんなに伝統的な技術や素材を用いたとしても、洋服の形になっている衣服は洋服です。
このような考えから、本着物では着物と呼称される形を大切にして、伝統を今に繋いでいます。

現今のかたち。
歴史を学ぶ過程において、着物は変化することを確信しました。
分かりやすい例としては、平安の束帯、室町の肩衣袴、江戸の羽織袴があげられます。これらはすべて着物といえますが、形は似て非なるもの。この事実は、時代ごとに着物が変化してきたことを意味しています。
その上で、着物が日常的に着られていない現状から考察するに、形にこそ問題があると感じています。
だからこそ私は、古今東西の衣服に学び、土着の美意識や価値観を尊重した上で「今着れる」という私自身の感性を信じて、本着物の形を導いています。

正装の理由。
物心ついた頃には、すでに洋服を着ていた。
そこには何ら違和感はなく、それが普通だった――。
初めて「着物を着たい」と強く意識したのは成人式のときでした。日本人として、日本の服が着たいと素直に思いました。ただそのときは、みんなスーツという理由からスーツを着て行きました。日本人らしい選択と言えばそうかもしれません。
本着物を手掛けるにあたっては、正装をとても意識しています。私服として気楽に着れる衣服も手掛けていますが、あくまでも正装を主軸としています。理由は、「スーツに変わる仕事着」として着用したいという想いが根底にあるからです。
この時代における様式美を、確立する所存です。

本来のふつう。
学生時代、デザインを学んでいく過程で最も衝撃だったことは、まぎれもなく「ふつう」という価値観との出会いでした。奇抜な製品は生活に残りにくく、結局は何気なく買ったものが日用品となり、そんなものこそが生活を支えるものになっていく。奇抜や斬新なものを志向していた当時、この「ふつう」との出会いでデザインの方向性は大きく変化しました。
しかし大学卒業後、この考えが変わる転機が訪れます。それは、「ふつう」を提唱されているデザイナーの方々が手掛けているものは、本当に普通なのだろうかと感じたことがきっかけです。あくまで個人の、主観的かつ感覚的な捉え方ではありますが、それらは「グローバルスタンダード」であり、この土地にとっての「ふつう」ではないと感じるようになりました。
単純に考えて、日本にとっての普通とアメリカにとっての普通、フランス、イタリア、ドイツ、イギリスにとっての普通は同じではありません。すべての国や地域において「ふつう」という概念そのものが異なります。
つまり、必然的に「ふつうのものをデザインする」という行為自体が、極めて限定的になるべきだろうと思うのです。少なくとも同時多発的に全世界で販売するようなものではないと。
それからは、私が思う「本当のふつう」を生み出してみたいと考えるようになり、現在の風土や歴史を尊重するデザイン思想に繋がっています。

制約の美。
美とは何か
この地に流れる美意識や価値観を私なりに解釈し、再構成した着物、本着物を手掛けています。
このようにお伝えしますと「美とは何か」という根源的な問いが生まれるかとは思います。美の種類は多様であり捉えがたいものではありますが、美しさを感じる要因のひとつに統一感、様式美というものがあります。ここでいう美とは、主に統一感、様式美を指すこととします。ある形式に基づいたつくりや表現が細部に至るまで統制されているとき、人は美しいと感じやすいと思います。もちろん感受性は千差万別ですので断定することはできませんが、おそらく古い町並を目にしたとき、多くの方が美しいと感じるのではないでしょうか。
なぜ古い町並は、国や地域を問わず美しいのか。その理由を探るとすれば、私は「制約が美を担保していた」からだと考えています。
古い町並を美しいと感じるのは、家を建てる際、情報にしても素材にしても作り方にしても、交通網や伝達手段に制限があることで地域ごとに特定の共通項が生まれ、必然的に調和のとれた建築群となりやすく、その結果「町並全体としての美」が生まれたのではないかと考えられます。現在の社会においては、情報も素材も作り方も、何もかもが自由になりました。その過程で、制約によって担保されていた美を手放してしまったと感じています。
そうはいっても、全員で同じ服装をしようと促そうとは考えていません。具体案としては、ローカライズした上でパーソナライズしたらいいのではないかと考えています。

白川郷を例にあげてみますと、全体の町並はとても美しいと感じます。しかし近づいてみると意外にも建築それぞれは個性的です。つまり、共通項があることで、たとえ個性の集まりになったとしても、全体としての美がそこに宿ると考えられます。
このような事象から、美とは「自然や人為的に規定された制約から生まれる賜物」だと思うようになりました。ここで重要な点は、共通項があることで、偉大な芸術家に匹敵する、あるいはそれ以上の美が全体に宿ると考えていることです。
町並み全体を俯瞰して美しい状態でありながらも、多様性を保ち個性も尊重する。本着物は、このような世界観を志し手掛けています。

余白の美意識。
継承する美しさ
ひと昔前であれば何も考えずとも制約が美を担保していた訳ですが、現在は自由であるがゆえに、意識的に共通項や制約を掲げる必要があると思っています。
私としては着物に美しさを感じていますので「なぜ着物を美しいと感じるのか」その理由を読み解き、共通項として掲げる要素を見出した上で、美しさの本質を現代に継承しようと考えました。
方法としては、着物の美しさを浮かび上がらせるために洋服との対比を試みています。結果として、それぞれ左記のような特徴があると感じました。
これら比較による評価は、私個人による主観ではありますが、身体のアウトラインを隠し、未知化して想像を掻き立てる着物にとても惹かれていることが分かりました。全てが明らかになっている状態よりも、すこし分からない部分があった方が、私の眼には魅力的に映るようです。
類似した事例は絵画の分野にも見受けられます。例えばルネサンス期を代表する芸術家レオナルド・ダ・ヴィンチや、光の魔術師の異名をもつレンブラント・ファン・レインの絵画は、細部に至る描き込みが素晴らしく、あたかもそこにいるかのように写実的に描かれています。
一方、琳派の系譜である俵屋宗達や尾形光琳、あるいは狩野派の絵画にしても、日本絵画は対象物を抽象化し画面に余白を多く残すことで、鑑賞者の想像により作品を補完しています。
これら考察から、余白を纏う性質がこの地に深く根付いていると感じ、未知化する美意識、想像の余地のある美を、基幹美として、継承の柱としました。

浮世を彩る。
10年以上デザイナーをしている中で、ひとつ問題意識を持っていることがありました。それは、衣服の色について。
デザイナーは職能上、我を出すというよりは自分以外を立てることが基本であり、おのずと空気のように、水のようにありたいと感じやすく、結果として目立たない身なりに落ち着く傾向にあります。色で言えば黒、白、グレー。よくある服装としては、黒いタートルネックに黒いジャケット、あるいは白いシャツに黒いジャケットです。ご多分に漏れず、私も黒やタートルネックを多用していました。
単体で見たとき、確かに黒い衣服は魅力的です。それは禁欲的な印象を与え、何か極まった生き方をしている人を連想できるからです。例えばスティーブ・ジョブズであり、古くは千利休。私自身、彼らへの憧れも含まれているのだろうと感じます。
しかしながら、衣服を景観と捉えたことで生まれた衣服が本着物です。町中を見渡したとき、全体が黒一色となってしまうのは本望ではありません。このような背景から、最近は黒色以外の色を使いたいと思うようになりました。
そこでヒントとなったのは、江戸時代の四十八茶百鼠。幕府は奢侈禁止令により町人の着物の色を「茶色」「鼠色」「藍色」の三色と規定します。それでも人々は絶妙な色合いを生み出し制約の中で粋に遊んでみせた。
私もこの三色を起点に、浮世を彩ってみたいと思います。

和の衣
日本文化を担う新たな正装として「和の衣」を発表。ジャケット、トラウザーズ(パンツ)、ワイシャツというスーツの構成を応用し、羽織・袴・襦袢のセットアップを提案。

ほんきもの
「和の衣」を基盤に、洋服との親和性を更に高め、羽織袴に加えて平安束帯も参照し思案した衣服。「ほんきもの」は、本着物と本気者を和えた造語。

KOHSUKE TODA
もはやブランド名を掲げる必要はないのではないかと考えるようになりました。そして、あえて掲げるのであれば、私という存在の証明をしようと。

KOHSUKE TODA
洗練することと魅力を削ぎ落としてしまうことは紙一重だと感じ、改めて再考した本着物。衿を加え、素材は「和の衣」で採用していた尾州ウールに回帰した。

KOHSUKE TODA
着やすく、使いやすく、分かりやすいものには、どこか深みがない。斑や皺は、決して簡単には理解できないこの地の美意識や価値観とも通じる魅力を孕んでいる。

KOHSUKE TODA
「本着物」は総称とし、それぞれ霞羽織、霞袴、霞筒袖と名付けた。大和絵特有の表現手法でもある「霞」は、時間や空間を内包し、湿潤な風土をも表している。

本着物「霞羽織」
2024年に発表した本着物「霞羽織」は、衿を加え生地に質感と色彩のあるものを採用したことが特徴です。2023年では最小限であることを是とし、衿はなく色彩もモノトーンでしたが、シンプルにすることは必ずしもいいことではないと感じ、装飾の価値を見直した上で思案を重ねました。
世界の流れとしては、反権力としてのカジュアル化が進んでいるように思います。企業のトップがTシャツ1枚で公の場に現れたり、仕事着がスーツから普段着に置き換わったりしている状況からも明らかですが、堅いイメージの場にカジュアルな衣服を着ていくことで、前時代の印象を持つ古い権力者に対しての反骨心が見て取れます。
例えるならトランプの大富豪で革命を起こしているような印象に類似していて、カジュアルで現れることに特別感と強さも付随しているように思えます。
とはいえ、私の方向性と改めて照らし合わせて考えてみるに、カジュアル化には見極めなければならない一線があると感じました。
近年私は「風土と歴史」を思考の源泉と据え、美意識や価値観といった土着の文化や精神性に重きを置いてきた訳ですが、要素を削ぎ落とす程に、どこか理想とは遠ざかっているように思えたことが契機のひとつです。
その一方で、着物を広める活動に対する違和感も日に日に大きくなっていました。着物を広める活動には「古典のままの着物(和服)を広める」または「ファッション(洋服)の文脈に和風を取り入れる」事例が多いように思います。

前者は文明開化前後の着物を見本に、それらを伝統として最も重んじています。和服や和菓子、和傘、和家具など、洋物に対するレトロニムとして「和」を冠した言葉が生まれた時代ですので、その時代に育まれた、誰もが日本的な美しさを感じる和服を広めていると思います。
しかしながら、和とはこうだと定義づけてしまったがゆえに変われない衣服となってしまっていることも事実であり、今日において和服は多くの人々にとって毎日着れる衣服ではありません。
後者はファッションの中に和風を取り入れるというスタンスです。着物の生地や柄を洋服に取り入れることで、今の人々にとっても着やすい衣服となっています。しかし、あくまでも洋服ですので中心はパリやミラノなど海外にあり、この土地の伝統を繋いでいるとは言い難く、日本人の正装としては着にくいようにも思います。
では、これらを踏まえた上で何をするのか。
私は着物本来の在り方を体現したいと思います。
本来着物とは、古今東西あらゆる文化に敬意を払った上で、土着のものと融和し、それぞれ時代に合わせて変わり続けてきた「変化する衣服」を指します。奈良時代の朝服、平安時代の束帯、室町時代の肩衣袴、江戸時代の羽織袴、これら全て「着るもの=着物」です。
しかしながら現在「着物」には「和服」の意味が色濃く反映されていますので、認識を改める意味を込めて、本義の着物「本着物」という名称を掲げて活動をしています。その過程において、洗練することと魅力を削ぎ落としてしまうことは紙一重だと感じた次第です。
そもそも、ただ着やすく、使いやすく、分かりやすいものには、どこか深みがありません。そんな中、斑や皺といった歪な要素は、製品としては敬遠されがちではあるものの、独特の趣やおもしろさがあり、この感覚は決して簡単には理解できない、この地の美意識や価値観とも通じる魅力を孕んでいると感じています。それこそ茶の湯における陶磁器の景色のような、一見すると分からないものを愛でる文化は極めて日本的だと感じます。
味のある衣服こそ、本着物なのかもしれません。

本着物の道
考えを深めていく過程において、柳宗悦の「民藝」やバーナード・ルドフスキーの「建築家なしの建築」にみられるような、その土地に根付くものづくりや思想は大いに参考になりました。
柳は、無名の職人たちによる「民衆」「実用」「多量」「廉価」「通常」といった性質を有する「民藝(民衆的工藝)」には、「他力美」や「健全な美」が宿ると説き、個人作家による「知識」「個性」「稀有」「高価」「異常」といった性質を有する「美藝(美術的工藝)」に対して異を唱えています。
また、ルドフスキーの「風土的(vernacular)」「無名の(anonymous)」「自然発生的(spontenous)」「土着的(indigenous)」「田園的(rural)」といった視座から語られる、世界各地の無名の工匠による風土的な建築はとても魅力的であり、西欧世界の建築史に一石を投じています。
その上で私としては、あくまでも私個人の感覚、感性を大切にしています。なぜかを素直にお伝えしますと、ご選出された民藝館の展示品や建築家なしの建築では、あまり暮らしたいとは思えなかったことがあげられます。現代の利便性の高い生活を享受していますので、この現状が要因であることは言うまでもありません。実際、柳は洋服で仕事をしていました。地方の調査ではジャケットにパンツを。重要な式典などへはスーツを着用して出席しています。この点には、どうしても思想との乖離があったのではないかと感じています。おこがましい限りではありますが、本音を言えば、民藝を身に着けてほしかった。
柳に限らず、風土や伝統を大切にされている方には、ぜひとも説得力のある衣服を身に着けて頂けたらとも思います。無論、これだけ洋服が普及している世の中に対して、わざわざ風土的な衣服を生み出そうとすること自体が稀有な行為であり、本着物の特性として「風土的」「歴史的」「伝統的」「霊性」に加えて「個性」や「時代性」といった性質を持たせていることからも明らかですが、既存から見出す「民藝」および「建築家なしの建築」と、既存から生み出す「本着物」とでは趣旨が異なることは理解しています。
これについては、どこまでも私はひとりの作り手として、既存のものを崇拝するだけではなく、現在の知識や技術や感性を以てして、より良いものを生み出せると信じているのだと思います。
文明の発達によって、必ずしもあらゆる物事が向上しているとは思いませんが、それでも良い面はあります。それらを取捨選択する審美眼こそが、デザイナーに求められる最も根源的な職能です。
私は、自ら手掛けた本着物を身に纏うことで、表現者としてその責務を全うします。
このような特異な思想を分かち合える方と出会い語らえたのなら、とても幸せな人生だと思います。
制作・著者 | 戸田光祐 |
@KOHSUKE TODA 2025 PRINTED IN JAPAN |